こんばんは、チャチャです。
今回は、自己肯定感とか気づいたらゲイであった内面的な投稿をしてみたいなと思います。
情報として普段投稿しているまとめニュースみたいな形式ばったかたちではなく、 私が経験してきたこと、思ってきたことを自分の言葉で少しずつ書いてみたいなと思います。
35歳の「今」に至るまでの軌跡として、この私の回顧録は複数回に跨ぐと思います。 私の過ごしてきた人生や、失敗、思いなど少しでも誰かの助けや、新たな視点になれたら嬉しいです。
読む人によっては身バレしそうな内容だと思います。 でも、正直、バレようが、どう思われようが、今の私は構いません。
今の私はすこぶる「幸せ」だからです。
でも、きっと昔の私は「幸せ」ではなかったと思います。 それは環境のせいなのか、それとも目の前の「幸せ」に気づけてないだけなのか。
思い返してもぶっちゃけ分からないのが本音ですね。笑
実は去年ぐらいかな。仲良くしている友人と食事している時に、私の過去を話すきっかけがありました。 その時に言われた言葉が
「とてもそうは見えなかった。変な意味ではなく、とても幸せな人生を昔から歩んできた人っていう印象しかなかった。 常に明るく笑って、色んな人に自分から話しかけて、良い雰囲気を作ってくれる。 きっと、両親から愛されて大切に育てられた人なんだろうな」
と言われました。
言語化が難しい感情が中々に走った記憶がありました。笑
でも嬉しかった。
素直に私の道は思ったより悪くなかったのかなって。
自分でも幸せなのに、他人の幸せの物差しで見た時にも、私は「幸せ」に見えたという事実が。
人によって「幸せ」の形は違います。 当たり前ですが、その形を押し付けられたくないし、押し付けるなんて以ての外です。
私の「幸せ」の形は「選択肢がある人生」です。
では、なぜその思い、価値観に至ったか、語らせてください。
その幸せのための手段が、私にとっては資産形成だった、 につながるイメージとして着地点を持っていく予定です。
どうぞ、お付き合いよろしくお願いします。
ということで私の幼少期から。と言っても両親の話がまずはメインです。
いきなりですが、生まれはフィリピンです。
母親がフィリピン人で、父親が日本人のハーフです。
母が17歳、父親が21歳の時に出来た子供が私、チャチャです。
この時点で、日本の人々が描く普遍的な「幸せ」のイメージから少し外れそうですよね。笑
全ての人に当てはまるわけではないですが、私の価値観では「子供」が「子供」を産んでしまったという印象です。 しかも、授かり婚となります。
10代で出産した人や、就業前に子供を授かった人が全部そうではないのは私も理解しています。 そういう人で立派に子育てをして、家庭に尽力している人もいます。
ですが、私の両親は間違いなくそうではなかったです。 「子供」とは自分勝手、自分優先、自分の欲望のままです。
勿論、それでいいですし、当たり前です。
他者と関わりあい、失敗をして、他者を思いやること、慈しむことを覚えて大人になるからです。
ですが、その経験が中途半端なのが私の両親です。
しかも成長途中として中途半端ならよいのですが、ぶっちゃけ、そもそもそういった意識とか思いやりが欠如しがちな二人です。 むしろ、マイナスでは?と思うところも、多々あり。笑
両親の出会いは日本で、夜の商売です。 詳しくは聞けてはいないのですが、フィリピンパブなのでしょう。 もしかしたら大人のお店かもしれないが、そこまでは踏み込めてはいません。 私が生まれたのは1989年です。この時期の日本はバブルらへんですよね?終わった時期かな?
どちらにしろ、母親は出稼ぎで日本に来ていました。この頃のフィリピン人の女性ではよくあることだと思います。 ですが10代でそういった理由で入国できるわけはなく、パスポートを偽って成人としてきていたようです。
父親的には「騙された」ようなものですね。
なので、現実的に結婚をしないといけなかったようですね。
ですが、母は私を身ごもった後は、フィリピンに帰国したようです。 理由は聞いたことないですし、分からないです。
単純に働けないから、帰国させたられたのか。 それとも、「私」を生みたいという「母性」が生まれたから逃げるように帰国したのかもしれません。
父親や、そういう店はきっと、中絶させようとしたでしょうから。
フィリピンはキリスト教が布教している国です。
実は母も母の家もクリスチャンらしいです。 この行動からすると本当にクリスチャン?と言いたくりなりますが。笑
なので、正式な旦那じゃない男性との子供を身籠ったわけですから本当にガチギレされて殴られたようです。 フィリピンの家なのか、母親の実家がそうなのか分かりませんが、教育という名のせっかんや体罰は当たり前ですし、全然普通らしいです。
私の記述は、もしかしたら母親のことを責めたりしてるように見えるかもしれません。 後に語りますが、本音、子供目線の私からしたら、辛いことが多かったので、そういう気持ちもあります。
ですが、私のこのストーリーでは、間違いなく母親も、犠牲者だと思います。大変だったんだろうなと。
母親は7人兄弟の長女です。関係性は叔母さんになりますが、母親の一番下の妹が、私の一個上です。
そして貧乏です。だから長女である母親はとにかく働かなくてはいけませんでした。 きっと長女である母親を日本に送り出すのに、イリーガルなこともしたり、お金がたくさんかかったのでしょう。
そんな娘が、どこのだれかも分からない男の子供を身籠って稼ぎもせず帰ってきたわけですからね。 しかもクリスチャンとしてもありえない行動。
16歳で日本に行かされて、17歳で帰ってきた母親にとっては、私なんかが理解できるわけないほど辛かったのだと思います。
それでも、母親は私を諦めなかったのだなと。 私が今ここにいるってことは、そういうことだから。
で、ここからのいきさつはあまり理解していません。
とりあえず、私をフィリピンで産んだ後、なぜか父親が私と母親をフィリピンまで迎えにきて日本に連れ帰ることになりました。 二人を入国するために、何百万もかかったんだから感謝しろと、父親側の祖父母、親戚に何度か言われた記憶があります。
フィリピンは確か、離婚できない国だから、そこからシングルで産むって現実的ではないのか。
日本では結婚しなければ、未成年に手を出したっていう罪で捕まるでしょうし、 そこらへんの大人の事情が関係しているとは思います。
あとは、後々めんどいことになる要因として、父親側は非常に金持ちの家ということがあります。 それを知ったら、母親側の家が、その情報を逃すわけないと思うんですよね。
金持ちの日本人が、未成年の娘に手を出したっていう構図があるのでね。
まぁ、推測の領域は超えないですが。笑
ということで、まず私の回顧録の初回としてはここまでにしようと思います。
重くならないように気を付けますが、表現が厳しかったら申し訳ございません。
また、ある程度内容がかけましたら投稿していきます。 引き続きよろしくお願いします。
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この「チャチャの人生再起動回顧録」シリーズは、ゲイの私が資産形成やパートナー、愛猫との日々を通じて自己肯定できるまでの話を、淡々&自虐多めで綴っています。
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