ゲイである私が資産形成とパートナーと愛猫とともに自己肯定出来るまでのお話:第2話

人生再起動回顧録
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こんにちは、チャチャです。

前回までは、両親の出会いとかプロフィールのお話をさせてもらいました。
今回は、私が日本に帰化してからのお話です。

前回はこちら👇


今回は、暴力的な描写があります。苦手な方は読まない方がいいかもです。
それでも、大丈夫という方はお付き合いください。


母親と私は、無事に日本に来ました。多分1歳ぐらいの時らしいです。
私はフィリピン人だったのですが、日本人の父親がいるので帰化した感じです。
後々のトラブル人生ですが、この日本人に「認知された」っていうのは大分幸運な出来事でしたね。
(含みを持たせときます。。。笑)

まぁフィリピンにいた記憶なんてあるわけないですし、自我の形成は日本になるので、気持ちは全然日本人です。

でも、本当に何を思って、どういう経緯で父親、父親の家は私たちを呼び寄せたのか。
父親とそんな話したこともないので、当時の思いはわかりません。

母親の母性と同じで、父性でも芽生えたのでしょうか。
まぁ、少なくとも、私から見た父親は、浅はかとしか言いようがない人間で、すぐ自己陶酔を始めます。

責任を取るのが「男」として当たり前みたいな態度が見受けられそうです。
なので、当時大学行っていたが、やめて六本木のバーでボーイなのか知りませんが、働き始めたっていうのはなんか語られたことがあります。

俺はとにかく家族を食わせてやらなきゃいけないから、学校なんて行ってる場合じゃなかった と。

ですが、父親の家はすこぶる金持ちです。成金の家っぽいと私は勝手に思っています。
その証拠に、本当途中から落ちぶれて、なんかみんな自己破産しまくってた記憶があります。
教養がないお金持ちはこうなるイメージです。

青山、世田谷などの住宅街の一等地で家を持っていて、とにかく家が大きかった記憶があります。
車もたくさんあったし。
何で財を成した家だったか、未だに知りません。今後も知ることはないですけど。

大きくなってから、あれはそういうことだったんだと気づきました。
高級百貨店の人が直接家に来て、商売する外商とか。
銀行の人?か知らないけど、頭下げてウチにお金を預けてほしいと。土下座ぐらいしないとねーみたいなこと言ってたな。
気持ち悪い、人を嘲笑する笑い声が印象的でした。

なので、そんなお金持ちの家に嫁いだ、母親。
きっと、最初は夢のようだったのかな。父親も最初は母も私も大事にしていたでしょう。

ですが、父親、酒、女、暴力など、クズのフルスコアような男です。
それを支えたのが、父親方の祖父母、親戚、親族と金です。

不倫しようが、母親に暴力振ろうが、俺を投げ飛ばそうが、フィリピン人、フィリピンの血が入ってる私たちに人権はないし、
間違っているのは私たち方だと。

不倫されても、祖母にそれぐらい我慢しろと言われ続けたらしいです。
父親は酒が入ると、とにかく止められないなので、あの声の大きさと体格で怒鳴られたら、私も母親も逃げられません。

母親は前歯が入れ歯なのですが、父親に頭を抑えられて、冷蔵庫に殴りつけられたことが原因らしいです。
まぁ、母親片側の意見しか聞いてないので、真偽は分かりませんが、あの父親ならやってもおかしくはないなと思っています。

父親の本性がクソなのは疑いようがないですが、働き始めた六本木バーというのも、バックがヤクザだったらしかったです。
なので、あの本性に拍車がかかったんでしょうね。ただの下っ端なのでイキってしまう感じが、しょうもないのも彼らしいです。

母親は、そもそもフィリピンから来たので、日本語がそもそも完璧ではありません。
味方もいないでしょう。
父親から暴力、恫喝、祖父母、父親側の親戚からの投げかけられる言葉、態度、本当に苦しかったでしょうね。
若干、17歳で私を産んで、10代で来た日本は、最初こそ夢だったかもしれないが、思い描いた未来とは違かったと思います。
逃げ出すことはできなかったでしょう。

そこで彼女が唯一、自分より弱い立場は私だけでした。

なので、私にとっては、父親、父親側からの攻撃性に加え、母親からのしつけという名の暴力もありました。

なんかどうも逃げ場なくて辛かったなと思います。
思い返すと、子供のころの記憶ですからね、とにかく、怖がってたという記憶が多いですね。

体は傷がよくついていたので、学校行く前に、母親に
「その傷なんていうの?」
て聞かれるから
泣きながら「猫にひっかかれたって言う」
と答えてました。

今思い返すと、私は近所で非常に異形で、嫌われたガキだったと思います。

父親の家は、近所でも金持ちで通っている。そして、性格が悪いとでも有名だと思う。
で、そこにいる子供が私、チャチャであって。
この環境のせいで非常に、屈折した子供だったと本当に思います。
本当に嫌われていたと思います。

人々の社会生活で、思い返しても、恥ずかしくて、取り返せないことをしてしまったなと反省するばかりです。
その証拠に、私の人間関係に幼少期から繋がる人間はもういません。それは両親を含めてです。

他者の家をバカにして、自分の家の方が金持ちだと言う。(子供である私が言ってしまうほど屈折しています)
友達のおもちゃを盗む。
落着きがなさすぎる。ずっとしゃべってる。
とにかく、嘘をつく。なんでも、特に自分が上という内容ですね。
きっと、これ以外にも本当にいろんなことをしでかしたと思います。

だから、幼少期のお友達というよりは、その友達の親から嫌われていたというのが正しいと思います。
あの子と遊ばせたくない、あの子を家に上げたくない。
って間違いなく思われてたでしょうね。笑

なので、こういうことをしでかすから、更に両親から暴力を受ける。
そりゃあ、怒られて当たり前ですよ。他者に不愉快な思いをさせてるんですから。
でも怒られる理由は、そんな正しい理由じゃないんだろうなと、あの家のことだから。
でも、当時の私は、価値観が狂ってるんですよ。


金持ちの家にいて、愛情はなく、疎外される、何をやっても暴力を受ける、親や周りからの承認がないまま自我が形成されてしまった。
周りのせいだ、環境のせいだと言って、誰かを傷つける権利はありません。なにも言い訳にならないことは理解しています。

本当に良い子なら、そんな状況でも良い子なのかもしれない。
かつての自分に対して、子供だからしょうがないよねって、自分で言うべきじゃないのは分かっています。
こういう言葉は、他者が言うべきものです。

ただ、かつての恥ずべき自分に対して、言語化、分析しようとすると、
自我形成の時期に、やはり愛情というか、
わがままに対して、親に受け入れられなかった子は、こういう風になってしまう印象をどうしても受けます。

子供の自分が、金持ちだと、あなたより上だと、嘘をつきまくるのが姿勢が、まさにそれだと。
今なら分かります、自己肯定感が高く、今の自分、ありのままの自分で満たされた人は、嘘つかないし、他人に対してマウントなんか取りませんから。

大人になってもこういう攻撃性を持つ人は一定数いると思います。
そういう人たちって、やはりどこか、自分に自信ない、満たされないから、
もっともらしいこと、攻撃性をもつことで、自分は間違ってない、相手が間違っている、下であることで自分を満たそうと思うんです。

なぜなら、私も、ついこないだまでそうだったと思うから。
もしかしたら、今もそうかもれない。私の本質は変わらず、そういう人間なのかもしれない。

けど、昔と違うのは、そうではないように、心掛けようとしている自分がいることです。
そういう思いで人と接しているつもりです。
心が弱くなってしまって、そう思ってしまう感情が自分の意志に関係なく発生してしまった黒い感情があったとしても
それを言葉に出さない、態度に出さない、出すべきではない、と思えてる自分が、今の自分にあります。

そういう風に思えてきたことが、私の自己成長、自己肯定感の上げられた話に繋がるのですが、上がりだした話はまだまだ後です。

幼少期のお話に戻りますが、小学校に上がりだしたころから性の意識が芽生えます。
この時から、私は男性が好きという認識がありました。

この早すぎる性の芽生え、かつ、男なのに女の子を好きになれていない、こういった感情もあいまって
さらに屈折していく自分がいました。

今でこそ、なんとまぁここまで、コンプレックスが重なることやら、、、と自分はもう笑うことができます。
笑ってるけどバカにしてるわけではないです。
受け入れることができるのです。

でも、幼少期の私は今思っても、本当にずっと自信が持てず、ビクビク生きてきたなと思います。

ということで、今回はここまでにしようと思います。
次回は私の自我形成で一番根幹をなすことなる、「ゲイ」である自分についてさらに深く掘り下げていこうと思います。

少し重い表現があったこと、申し訳ございませんでした。

また、ある程度内容がかけましたら投稿していきます。
引き続きよろしくお願いします。


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この「チャチャの人生再起動回顧録」シリーズは、ゲイの私が資産形成やパートナー、愛猫との日々を通じて自己肯定できるまでの話を、淡々&自虐多めで綴っています。

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